Other Other-SS

【隼手】あなたのてのひらのうえ

 
 それが、ファーストキスだった。
「可愛いよ」
 触れるだけの優しい口付け。新開が目を細める。
「オレが初めてで良かった」
 うっとりとした微笑みと愛の言葉は絶え間なく、奇跡の流星の様に降った。ただ一度切りのキスに対してこんなに受け取りきれないと思う。
 そして、それを信じてしまうには、あまりにも自己肯定感がない。
 自信がなかった。
 全てが嘘に思えた。手嶋は臆病で繊細だからだ。新開に相応しい自分とは、とても思えないまま告白を受け容れてしまい、そのまま口付けまで終えてしまった。手が早いと言えば、そうかもしれない。
「ヴァレンタイン、十三日から泊まりにこない? 部活あるけど、手嶋くん、暇だったら」
 少しはにかむように、新開は手嶋を誘ってくれて、手嶋が少し躊躇った、一月の頭。それから色々悩んで、オーケーを告げた。
 やっぱりこの人は、手が早いんだろう。付き合ったその日にキスをして、夜を誘った。
 そう、新開と手嶋は、まだキスしかしていない。泊まりというのはつまり、そういう事だろう。
 風が囁く。アスファルトの、冬の陽に焼けた匂い。それらを全身で感じながら、期待と予感に震える。
 ――してみたいけど、オレ、経験無いんだよなぁ。新開さんは経験豊富そうなんだけど。
「寒いの?」
 一瞬ぶるっと震えた手嶋は、「ちょっとだけ」と小さな声で言った。
 帰宅した手嶋はエアコンのスイッチを押すと、部屋が暖まる前に出会い系アプリをダウンロードした。
 ――『都内住みDDネコです。初めての相手募集してます。』
 短いプロフィールにそれだけ書き込むと、数件のダイレクトメールが届いた。手嶋は一番最初にアクセスを求めてきた相手を選ぶ事にした。
 
 だって、恥ずかしいではないか。
 あんな経験豊富そうな人に抱かれるのに、自分は何をどうしていいのかまるで分からないなんて。
 相手は、自分にアナルの洗浄の仕方をダイレクトメールで教えてくれた。聡い割に、手の中のスマホで何をどう検索すれば望む答えに行き着くのかさえ悩んでいた手嶋には、福音の様にさえ感じられた。大袈裟だが、本当の事だった。少なくとも間違った情報を掴まされた訳ではないのだと心底から安堵し、早速実践してみる。
 いつも短い爪をより短く切り、洗浄した穴に、これまた教わったローションを使い、指を抜き差しし、広げ、拡張する日々が続いた。
 新開には勿論、何も言わなかった。隠して抱かれるつもりだった。日々、隠れながら部室で接吻を受け、愛の言葉を浴び、幸福に蕩けるのを踏み止まる様に、何かに抗うかの様に、溺れないように緊張して過ごした。
 ただそんな事を幸福だと思って受け容れてしまえば、手嶋は幸せであっただろうに。
 自慰の最中、新開の顔ばかり浮かんだ。新開に触れられた自分の皮膚が、発火したかのように熱いとさえ、思いながら。
 
 冬の真っ只中、見知らぬ男とセックスする約束を取り付けた。二月になっていた。相手の都合もあり、新開の部屋に泊まりに行く前日に、そんな約束をしてしまった。馬鹿な事だとは分かっている。様々な感情が交差したが、敢えて一つ選ぶのならば、これは僻みに一番近い感情だと思った。相手は女だけかもしれないが、自分の知らない体験を終えている新開に対して。
 ただ、新開を愛しているから裏切りたいのか、それともこれは裏切りではないのか。考え始めて、思考を故意に停止させた。
 
 緊張のあまり何日もまともな食事が出来なかった。割れた唇と、縦皺の出来た爪。
 街は冬の匂いに充ちているけれど、吸い込む気にもなれなかった。
 街中は、全部がバランス良くうるさい。
 それなのに、空には欠けた赤い月が浮かんでいた。そんなヴァレンタインの前々夜だった。
 
 約束の場所は駅だった。事前に写真をダイレクトメッセージで送られていたから、悩む事もなかった。合流すると改装を終えたばかりだという綺麗なラブホテルに連れて行かれた。その四十ばかりだろう、背の高い男の優しそうな目付きが、新開に似ている事に気付いた時、手嶋は急に焦り、後悔した。
 停止させた筈の思考が動き出す。ぞわりと鳥肌が立った。
 〈――こんな事なら、新開さんが初めてで良かったのに。経験があるなんて背伸びしなくて、良かったのに〉
 背筋が冷えた瞬間、雪まで、降ってきた。
「雪だね。急ごうか」
 男に優しく肩を抱かれた。雪は落ちては落ちては、アスファルトの上で溶けて行く。地面からも身体が冷え始めた。
 思えば、新開以外の男に抱かれようなんて事は、自身を滅ぼしかねない程に、暴虐な考えだった。事実、手嶋はこれから滅びようとしているような気さえしていた。
 昨日の新開の手が、幾度も触れ合わせた唇が、ひどく懐かしかった。
 ――と。
 後ろから「手嶋くん!」という怒声が聞こえた。
 その衝撃は漫画によくある大仰な擬音の書き文字が、そのまま背中に鈍器となってぶつかった様な錯覚を覚えさせる程のものだった。
「手嶋くん!」
 手嶋はすぐには振り返らなかった。何故なら過剰な緊張と罪悪感に支配されていた手嶋には、それが現実の声なのか幻聴なのか判別が付かなかったからだ。
 こんな、何もかもが悪くしか動かない様な冬に。
 もし幻聴であるとしたら、それはなんと愚かな自己過信であろうか。こんなに大きく。しかし、それは幻聴などではなかった。肩を怒らせた新開が、そこに、いた。
「手嶋くん!!」
 新開の影が、手嶋を覆った。手嶋の影が壊れた。新開に踏み付けられたからだ。
「誰だよ、こいつ」
 新開は鋭い視線を、相手の眉間に突き立てた。
「なんで……」
「様子がおかしかったし、部室に自転車置いて家と逆方向の電車に乗るし、変な予感がしたんだ」
 故意に忘れていた感覚が、蘇ってくる。手嶋は男の手を振り払い、新開に抱き付いた。
「――……ごめんなさい」
 どちらに対しての言葉だろう。或いは両方に謝りたいのかもしれなかった。
 男は呆気に取られた顔をしていたが、「彼氏がいるんなら、後悔するような事は止めておきなね」と優しく告げられた。何と恵まれた別れ方だろう。男はそれだけ言い残して足早に立ち去った。
 
 
 
 新開はタクシーで帰ると言った。手嶋は困惑する。
「タクシーなんて新開さん、オレ困りますよ。電車で……」
 そんなもどかしい気遣いは、新開に対して無意味だった。彼はタクシーをすぐに捕まえて目的地である自室の住所を短く言ってみせた。
 現実から足が離れそうだった。
 死んでしまいたいと手嶋は思ったが、同時に賢い彼には分かっていた。まだ死ねる程の事ではないと。
 乗り込んだタクシーの暖房は今一つだった。息が、白い冬の真っ只中だという事を伝えてくる。
「手嶋くんはいつも考え過ぎるからさ、頭空っぽにするのも大事だよ」
 新開が自身のアパートで淹れてくれたお茶――今朝茶葉を入れたそうだ――は、白湯と殆ど変わらぬ出涸らしであったが、その温かさに、ひどく満たされた心地になった。
 そもそも、料理上手の新開が、こんな茶を淹れてみせた時点で、彼も相当に慌てていただろう事が分かりそうなものであるが、今の手嶋の判断力ではそこまで推理出来なかった。表面的には新開は穏やかにさえ見えていた。
「あいつ誰? 前から二股かけてたの?」
「あ……、あの人は今日初めて会ったばかりで、あの……」
 説明を始めた、手嶋の傷付いた言葉を、新開は遮らなかった。ただ一々眉を上げて、苛立ちを表明する。
 不穏な茶卓だった。
 やがて手嶋は、何と言って良いのかさえ分からなくなった。幾度か口を開いたが、澱みしか吐き出せなかった。
〈オレが悪い〉
 そう思いながらも、手嶋は安堵していた。偶然が重なり、運良く新開が見付け出してくれた事に対して。その安堵を惨めに、情けなく思いさえしたせいか、まだ身体は冷たかった。そして、気詰まりである事に変わりはない。
「オレじゃ……あんまりだから……経験も無くて、絶対に新開さんを喜ばせられないだろうって思ったんです」
 それが、一番の本音だった。
 二人の関係は、今日、この日に終わるのかとさえ思い詰めた。
 自分の様子がおかしいと感付いてくれた人に対して、別れることが誠意であるかのようにさえ思う。
「手嶋くんは頭がいいから、喋れば喋るだけ本質から遠ざけるってヤツをやってみせるだろう?」
 卓の上で組んでいた手を組み替えて、新開は何かを保つかのような重々しい声でそう言った。
 傷に浮く透明な液の様に、涙が滲む。
 未だ、明確に新開は怒っていたのである。それに手嶋の恐怖は募った。手嶋は返すべき言葉を探したけれど、生憎と持ち合わせの語彙力が働かなかった。
 
 ――夜がやけに長いのは、きっと、冬のせいだ。
 
 
「オレだって経験なんかないよ。中学も高校も、自転車しか見てなかったし。……他に目が行ったのなんて、キミだけだ。手嶋くん」
 新開の目に、怒りと同時に浮かぶ慈しみに気付いた。新開さんは、と手嶋は思った。いつも綺麗な人なのに、綺麗なものだけを見せてくれる人ではないのだ。
 
 
 
 
「元々、明日を初めての日にするつもりだったから、オレの方も用意はあるよ」
「え……?」
 間の抜けた声が飛び出す。
 新開の顔が迫り、囁いた。
「好きだよ」
 そのまま、弾力のある唇に唇を吸われる。
「あっ、新開さん待ってください! オレ、恥ずかしくて……」
「待たねぇよ。待ってたら他のヤツに盗られちまう」
「新開さ……」
「手嶋くん。オレは怒ってるんだよ」
 新開の言葉が、その怒気が胸の奥に溶ける。急に身体が温かくなってきた。
 怒りとは。それは人間の中の、最も人間らしい部分だ。
 手嶋は新開に押さえ付けられていたが、それなのに彼をこれ程までに魅力的と思った事は、初めてだった。
 服が脱がされていく。新開も裸になる。啄むような、じゃれつく様な口付けが降った。新開の手が乳首を掠め、「あっ」と声が漏れた。
「感じてくれてるんだね。嬉しいよ」
「恥ずかしいから止めてください!」
 そのまま新開は身体をずらして行き、手嶋の性器を咥えた。
「あっ……ああ、新開さんっ……」
 更には手嶋のアナルまで弄りながら、ペニスをしゃぶり続けてくれている。声が抑えられない。新開さんが……だって、あの新開さんが……!
 引き剥がそうとするものの、新開はまるで力の入らない手嶋が、素直に快楽に溺れてしまえばいいのにと思った。身体をまた上にずらすと、首筋に舌を這わせ、目を見詰め、囁く。
「正常位で、するよ。ちゃんとオレの顔見ててね」
「新開さ……」
「大好きだよ、手嶋くん」
 組み敷かれた手嶋は、新開に貫かれた。痛みは緊張と陶酔が大分緩和してくれた。
 降り続ける雪は白く、辺りは暗いのに明るい。
 二月の、雪降る睫毛さえ凍りそうな晩。二人は初めてのセックスをしたのであった。荒い息が治まるまで、ずっと上から覗きこんで、キスをくれた。
 カーテンの無いこの部屋の窓には部屋の内装が映る。手嶋と新開も映っている。
「オレは手嶋くんが好きだよ」
 繰り返されるその言葉を、その籠められた意味を、理解出来ない手嶋ではなかった。
 涙が滲む。
 あなたに見捨てられたら、と手嶋は思った。こんなに愛してくれる人に見捨てられてしまったら、耐えられないだろう。
「今夜は一緒に眠らせてください。明日が悪夢にならないように」……
 全てが終わり、新開が作ってくれた大量の野菜炒めと、炊きたての飯。身体に血と熱が行くものの、頭はぼんやりする感じ。だけどそんな事も、快く感じる。夢なんか見ずに、手嶋は新開の腕の中で眠った。
 目覚めると、間近で新開が笑った。
「おはよう」
「おはようございます。……寝顔なんて、見ないでくださいよ」
「可愛かったけどなぁ。顔洗っておいでよ。歯ブラシも用意してあるからさ」
「はい」
 言ってから、自分が貞操を捧げてしまった相手の、その童貞も捧げられた事に気付き、赤面する。
「どうしたの?」
 急な照れの感情を手嶋の顔に見て、新開は不思議そうな顔をした。
「いえ。なんでも……あの、新開さんって、かっこいいですね」
「え?」
 新開はぽかんとした表情で、自分を見ている。手嶋は素早く洗面台が備え付けられた浴室に向かい、洗顔した。
「そういえば、身体、痛くない? 大丈夫?」
「あ、ちょっと腰が怠いかもしれません」
「ごめん」と新開は謝った。
「オレも初めてだったから、痛くさせない方法が分からなかった」
「そんな……平気ですよ、これくらい」
 なんて優しい人なんだろう。自分はあなたを裏切ろうとしたのに。手嶋は改めて己を悔いた。
「部活行けそうかい?」
「大丈夫です」
 大丈夫ではなかった。室内のローラー台に設置された自転車に乗ると、初めての感触を知ったばかりの尻は痛みを訴えた。それを表に出さないように気を付けながら、一日をやり過ごす。
 練習が終わると、夕焼けが辺りを包んでいた。
 手嶋の不調に気付かない新開ではなかったが、労りの言葉を重ねれば遠離る様な気がして、その事には沈黙を保った。
 部室に転がっていた、誰かのシャンメリーの空き瓶を一輪挿しに見立て、夕陽を活ける様な仕草をし、新開は笑ってみせた。
 この人に愛されて良かったと、噛み締める様に手嶋は思った。腰をそっと擦る。こんな鈍痛すら、あなたに与えられたものだから愛おしい。
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